天才の考察
「天才とは、尽きない劣等感と尽きない愛のことだなのから。そして、得てして天才は自分が天才だと気づかない」
オードリーの若林が、南海キャンディーズ山里亮太の『天才はあきらめた』の解説で寄稿している一文だ。
山ちゃんは天才の部類に入ると以前から思っている。テラスハウスでの的確かつ短く発せられるワーディングセンス、練られたコントではなく、語彙力豊富な返し。ああ、こういう人が才能がある人なのかと感じさせてくれる芸人だ。『天才をあきらめた』を読めば、天才の思考回路が浮かび上がっているといっても過言ではない。
天才には憧れる。私も天才になりたいなと思う。もしかして自分は天才じゃないかと、こじつけようとしたこともたくさんある。
私が日々、仕事をやっていてもこういう人が天才なのかなと思う人は少なからずいる。
目の前に高いハードルがあっても、難なく潜る人はいる。ハードル自体をぶっ壊して前に進む人もいる。
自分と何が違うのだろうか。
村上龍は、才能について「危機感に支えられた意志」だと言った(c.f.『ストレンジデイズ』)。
天才とは、「天賦の才能」だ。つまり、生まれながらにして危機感に支えられた意志を持ち続けられる人のことを天才と呼ぶのかもしれない。
山ちゃんは、常に危機感や劣等感、コンプレックスを自身のカンフル剤にして、目の前に次々の立ちはだかるハードルを乗り越えようと苦悶し続けている。特に山ちゃんは「モテたい」という願望があり、自身のコンプレックスと照らし合わせてから這い上がった。
天才は得てして、努力せずとも一般人とはかけ離れた力を発揮する力のように捉えられることがある。
だが、天才にも努力は必要なのだ。努力を支える意志が、天才かそうでないかの分かれ目になるのではないか。
危機感に支えられた意志とは、言葉を柔らかくすればハングリー精神にも近いだろう。
周りを見ても、「天才だな」と思う人は、自身の過去や内面・外見あったり、家族であったり、人間関係であったりとどこかに傷を抱えている人は多いと思う。つまり、コンプレックスになるものだ。コンプレックスを強く持っている人は独特の雰囲気やオーラを漂わせている。
天才は、コンプレックスを燃料にして次のハードルをどんどんと超えていく。
村上龍は別の小説で、「すごい奴っていうのはそいつに何か例えば才能みたいなのがべっとりとくっついているんじゃなくて、何か欠けてる場合の方が多いんだ」とも言っていた(c.f.『音楽の海岸』だったと思う。。)
欠けていると言っているのが、他人にあって自分にはないものであり、それを羨ましいと思う行為だろう。
やはり考えてみると、オードリー若林も村上龍も言っていることは変わらない。
満たされたら、終わりだ。常に他人を見てコンプレックスを探して苦悩し続けなければならない。それが天才に近づく近道になるだろう。